古い懐中時計 店の奥の片隅に、老婦人は足を踏み入れる。この時計店の中で、そこだけがどこかアンテイクな趣を漂わせていた。曲線が複雑に絡み合う金属の装飾が施された、壁掛けの時計。ショーケースの上で時を刻む、色とりどりのステンドグラスで彩られた盾型の時計。そして、ショーケースの中には、銀製のものや、蓋にカメオを装った懐中時計が幾つか並んでいる。 「懐中時計、ですか」 ショーケースを覗き込む老婦人に店の主人が近付いた。 「いえ、本当は腕時計を。今もっているものが壊れてしまって、もう直らないからと」 そう言って、老婦人は未だ腕に巻かれたままの、壊れた腕時計を主人に見せた。今ではすっかり見られなくなってしまった、古い螺子捲き式の腕時計だった。 「ご婦人用でも、今は皆、電池式ですからね。ひとつの電池で3年は持つ。あちらに色々と並べてありますよ」 その腕時計が老婦人と共に刻んできた歳月に感心しながらも、主人は入口近くのショーケースを指して言う。 「いえ、ね。ただ、古い時計がいいんです」 首を横に振り、老婦人は視線をショーケースの中へと戻した。幾つか並べられた懐中時計のそれぞれを、考え込むように見詰めてゆく。腕時計から懐中時計へと、老婦人の興味は移っているようだった。 「開けて、見せていただけますか」老婦人が言う。 一旦レジへと鍵を取りに戻り、主人はショーケースを開いた。老婦人は、あらかじめ見定めていたかのように、ケース内に並べられていた懐中時計の、一番端に置かれていた時計に手を伸ばした。古いものではあるがアンテイクというような代物でもなく、それ自体が価値を持つような装飾が施されているわけでも、銀で造られているわけでもない。鈍く輝く金属メッキの蓋を持つだけの、それは地味な懐中時計だった。 「そいつはあまりお勧めできませんよ」主人が言う。この店を開いた先代がいつ頃仕入れたものなのか。恐らくは戦時中かそれ以前に造られたものなのだろうが、保存状態はともかく、造りがいいものとはいえない。 「ただ古いだけのものだし、防水でもない。特別古いものを集めている方にはいいですが、普段使いにはちょっと」そして、正直に付け加える。「竜頭を一杯に捲いたところで、二日も持たずに停まってしまうんですよ。この時計は」 そんな主人の話を黙って聞きながら、老婦人は手にした懐中時計の曲線を、いとおしそうに指でなぞり続けている。 「わたしね」主人に向き直り、老婦人が言った。 「昔、息子を亡くしたんです」 乗っていた船が転覆し、二週間の行方不明の後、海中から発見されたのだという。そして、遺体が海から引き揚げられたその日が、息子の命日となったのだと。 「でも、わたしは、事故が起きたのはいつだったのか。息子が本当に命を落としたのはいつだったのか。その時を知りたかったんです」 そう言って、手にした懐中時計の文字盤に眼を落とす。老婦人は続ける。 「それで、思わず息子がしていた腕時計を手に取りました」 腕時計は息子の遺留品として、既に殆ど肉の削げ落ちたその腕から外されていた。 「息子がしていたのは外国製の、名前はわかりませんが、文字盤がいくつもあって、その中をいくつもの針が廻っていて、日付もついていて。きっと高いものだったのでしょうね。買ったばかりの頃、わたしにそれを見せて自慢していたことがありましたから」 外国の銘柄なんて良く判らないんですけれども、と老婦人は笑った。 「デジタルではなく針の時計でしたから、息子が海に没したその瞬間の時を、文字盤の針は留めているものと、そう思ったんですね。息子の命が絶えたその時のまま、息子の時計も、共に時を刻むことを停めていると。古い人間ですから。海に沈んだ時計なんて、水が浸みてすぐ駄目になるものだと、そう思い込んでいたんですね」 深い海の色を湛えた眼で、老婦人は主人を見詰めている。主人の中で、店中の無数の時計が一斉に時を停めた。店内は静けさに満たされる。 「ですが、息子の時計はその時も、変わらず今現在の時を刻んでおりました。主の生き死にとは関係なく、ただひたすら、この世の時間だけを刻み続けておりました」 半時を伝える短い鉦の音がコンと響き、店内と二人の間の沈黙を破った。 「ごめんなさいね、変な話を」老婦人が言う。 「この時計、いただきますわ」 「よろしいのですか」ふと我に返ったような心地で、主人は答えた。 「毎日捲かないと、二日も持たずに時を停めてしまうのでしょう。この時計は」 主人は頷く。老婦人は相変わらず、海の底のような深い色を湛えた眼で主人を見詰めたまま、ふふと笑った。 「老いて独りで暮らしている身、ですから」 老婦人は懐中時計の竜頭を廻した。この時計の螺子が捲かれるのは何年ぶりだろう。微かな音と共に、文字盤の針が動き出す。そうして古い懐中時計は刻み始めた。新たな主の時を、自身の時と共に。 Kaeka index. |